連載 No.31 2016年06月05日掲載

 

幼い頃に魅せられた廃墟


廃墟、あるいは空き家などの古い建物に引き寄せられるのは、写真を始める前からだ。

ひっそりとたたずむ納屋や蔵。薄暗い光の中で埃に埋もれたさまざまな遺物は、

小学生だった自分にも、違う世界の入り口のように感じられ、不思議な興奮を与えてくれた。



写真を始めた中学の頃、同じ町内に高知大学の南冥寮があり、カメラを持って撮影に出かけるようになる。

老朽化のために移転することになっていたその建物は、2階建ての古い木造で、

何棟かが立ち並ぶ敷地には美しい大木もあった。

移転を終え取り壊しを待つ頃には、夏草や蔦が生い茂る廃墟となった。

薄暗い下駄箱や廊下は神秘的な空間だった。今でも懐かしく思い出す。



その後、廃校などにも撮影に出かけ、被写体として廃虚の魅力は変わらなかったが、

大学で写真を学ぶようになると、その作風は大きく変わった。

それまでは絵画や映画のワンシーンのような情感の中に自分の表現を求めていたのだが、

感情を切り離した、昇華した空間を見るようになる。



埃に覆われたテーブルのコップや、蜘蛛(くも)の巣の中にぶら下がる電球は、

遠い窓から差し込む光に照らされて、宇宙空間や太陽系の惑星のように見える。

モノクロームの表現に特化したことかもしれないが、

それらを写真にしようとすると、これがなかなか難しい。



 何度撮影してもコップはコップ、電球は電球にしか写らない。

人間の痕跡が昇華し、宇宙のようになったものにあこがれるのだけれど、

記憶の生み出す輪郭に縛られて、新しい世界は写らない。



それでもあきらめられずに撮影を続けて、廃墟がテーマの作品をはじめて仕上げたのがこれだ。

墓標のような絵柄だが、これは病院のトイレだ。

個室の仕切り板がはがれた壁に強い日差しがあたっている。

1988年に群馬県の小串硫黄鉱山跡で撮影した。



この作品がきっかけになり、少しずつ撮影が進み、8年後このシリーズの個展を開いた。

違う世界の入り口がやっと開いたような感覚があった。



学生時代高知に帰省したおり、大川村の白滝鉱山跡に撮影に出かけたことがある。

まだ残っていたロッドミルらしき機械や、錆びた階段の手すりなどを撮影したが、

暗闇で撮影する技術的なスキルにも乏しく、うまく仕上がらなかったネガが保存されている。

機会あれば何度でも撮影に出かけたい場所だったが、

当時同行した友人が撮影中にスズメバチに刺されるという事件があり、

早々に切り上げて山を下らなければならなくなった。

危険な場所との思い込みから、そのときだけの訪問となってしまった。

その経験から、まずは頭上や地面の蜂の巣を警戒する癖がつき、私は刺されたことがない。